青葉台旭のブログ

青葉台旭が日々思う事を書きます。未整理の思考の断片も書いていきます。整理された思考は http://aobadai-akira.hatenablog.com/ に投稿しなおしていますので、そちらもよろしくお願いします。

ソーシャル・ネットワーク・サービスで複数のペルソナが持てるように

知り合いと個人的にやりとりするなら電話と電子メールで充分……だった

このところSNSについて、あれこれ考えることが多い。
何故かというと、フェイスブックを始めたいと思いつつ、どうしても始められない自分がいて、しばらく悶々と迷っていたからだ。

フェイスブックは実名登録が(建前としては)必須な訳だが、実名で……つまり「リアルな私として」フェイスブックを使いたいかどうかという話なら、答えは決まっていて、「今のところ必要ない」

家族、親戚、友人、知人とのやりとりなら、電話と電子メールで十分だ。わざわざSNSのお世話になるほど交友関係は広くない。

まあ、ただ、こういうコミュニケーション・ツールは、世の中の多数派が使い始めた時点で、残された少数派も自動的に使わざるを得なくなるから、私もいつかフェイスブックのアカウントを取得するかもしれない。

伝え聞いた話だと、アメリカでは既にほとんどの人がフェイスブックのアカウントを持っていて、もはや「インフラ」とさえ言える状態らしい。

初対面の人同士が電子メールのアドレスを交換するというのは、もう昔話で、今はフェイスブックで連絡を取り合うのが当たり前だそうだ。

そう言えば、他県へ嫁に行った私の妹が、今年のお盆に甥っ子を連れて実家へ帰ってきた時、私が甥っ子の写真を撮って「写真を送ってやるからメール・アドレス教えろ」と言ったら、妹がいきなり「ラインやってる?」などと聞き返してきた。
恐らく、ラインのアカウントを持っていれば、電子メールでやりとりするよりも簡単に写真の共有が出来るのだろう。

残念ながら、私はラインをやっていない。

私が首を横に振ると、妹の奴め「チッ」などと舌打ちをして「仕方ねぇな」という感じで自分のスマートフォンの画面にメール・アドレスを表示させ、「自分で入力して、送信してよこせ」的な顔で顎をしゃくった。
「兄貴、今どきラインも知らねぇのかよ、今どきメアド交換かよ、ださっ!」という訳だ。

つまり日本でもSNSのアカウントは……日本の場合は「フェイスブック」よりも「ライン」だろうが……持っていて当然の、必要最低限の情報インフラになりつつあって、電子メールは過去の遺物になりつつある、という事だ。

この傾向は、しばらく続くかもしれない。

私は個人的には、電子メールというインフラは、そのシンプルさゆえに好きだが。

よく言われる話ですが、人間は複数のペルソナを持つのです

 周囲の人間がみなフェイスブックなりラインなりで連絡を取り合うようになった時には、私もそれらのSNSを使う事になるだろう。
その事自体は、別に問題ない。
慣れれば良いだけの話だ。

問題は「妹に甥っ子の写真を送信した私」と「『青葉台旭』として『小説家になろう』で小説を書いている私」は、少なくとも表面上は「それぞれ別の私」であるという事だ。

妹は、私が「青葉台旭」として小説を書いていることを知らないし、「青葉台旭」としての私は「小説家になろう」に甥っ子の写真を載せようなどとは思わない。

家族の一員としての自分、仕事をしている自分、友人と酒を飲むときの自分、フットサル・クラブに所属する自分、鉄道マニアの自分、アニメが好きな自分……

よく言われる話だが、多くの人間は、複数の集団に所属し、その集団ごとに「モード」を切り替えてメンバーと付き合っている。

友人に酒を飲みながら会社の悪口を言っている事を上司には知られたくないし、毎週欠かさず「GO!プリンセスプリキュア」を見ている事を、フットサル・チームのメンバーは知らない。

人間は、そうやって自分の持っている複数の個性に、まんべん無く光を当てることで、全体として過不足の無い精神状態を保っているのだと思う。

ところが、フェイスブックにしろラインにしろ、人間が持つ複数の個性すべてを一つのアカウントで制御しろと言う。

そりゃ、無理な話でしょう。

いわゆる「SNS疲れ」なる現象も、本来、別々の「モード」で付き合うべき複数の集団と、むりやり一つのアカウントで付き合わされる事が原因なのではないか。

いや、SNSが本来すべき事、したかった事は分かるんです

SNS=ソーシャル・ネットワーク・サービスとは「現実の社会のネットワークをウェブ上で補完するサービス」という意味だろう。

ここで大事なのは「現実の社会」という事だ。

つまりフェイスブックであれラインであれ、その目的は「現実の人間関係」をいかに補完・補強していくか、に、ある。

現実社会と1対1対応する写像をインターネット上に構築する事こそが、これらSNSの役割な訳だ。

その意味で、フェイスブックが実名登録を強いたり、ラインが1つの携帯電話で1つのアカウントしか登録できず、表示名が相手の電話帳に登録されている自分の名前だったりするのは、本来の趣旨を考えれば正しい。

アカウント=ID=アイデンティティ(現実の自己同一性)という形で、インターネット上に現実社会をマッピングするのが目的なのだから。

しかし……

この世に「一人しかいない私」が「複数の役割」を演じているのが社会というものです

 現実の、物理的な存在としての「私」は、この世に1人しかいない。
そりゃ、そうだろう。

しかし、その物理的な自己同一性を基本とした「現実社会から仮想社会への1対1マッピング」にこだわるあまり、フェイスブックもラインも「世界に一人しかいない私が、複数の集団でそれぞれ別々の役割を演じている」という社会の側面を無視してしまっている。

これは、いかがなものか。

「フェイスブック・ページ」も「ライン@」も、ちょっと違う

「フェイスブック・ページ」や「ライン@」は、確かに本名ではなく「会社名」「団体名」「芸名」などが使える。

しかし、これらのサービスは、あくまで「会社」「公共団体」「芸人」などが、多数の顧客やファンに対して情報発信をすることを前提に作られている。

というより、むしろ、個人的に1対1でコミュニケーションし難いように機能制限がされている。

つまり、個人と個人のコミュニケーションは、あくまで現実のID=身分証明がなければ(建前上は)不可能であり、架空の名前を使うのは「公の存在」として、不特定多数の相手に情報発信をする時に限る、という主義。

「人間が『役割を演じる』のは、仕事や公共団体やステージ上など、パブリックな場所においでだけでしょ。1対多のコミュニケーションにおいてのみでしょ」「1個人として、家族や友人やクラブのメンバーに会う時は、『素の自分』をさらしているよね?」というわけだ。

これだと、「フットサル・クラブのメンバーと次の試合の連絡を取る(個人としての)自分」と「アニメ・サークルでプリキュアについて雑談する(個人としての)自分」の使い分けが出来ない。

実際には、家族や友人やクラブのメンバーと会う時でも「素の自分」すべてをさらけ出している訳ではない。

アニメ・サークル用のアカウントに喜々として書いたプリキュアの記事を母親には見られたくないというのが本音ではないだろうか。

 1つのアカウントで複数の「ペルソナ」を持てるように

実名でなければ登録できないとか、1つの携帯電話に付きアカウント1つとか、それ自体は、別にそれで良い。

ただ、そうやって取得した1つのアカウントで、複数の「ペルソナ」を持てる、そんなSNSがあったらと思う。

例えばアカウント1つにつき、ペルソナ最大10個持てるとか。

仮に、ここに山田太郎という人間がいたとしよう。

まず「本名の」山田太郎でアカウント登録する。

次に家族用ペルソナとしての「山田太郎」、仕事用ペルソナとしての「山田太郎」、フットサル・クラブ用ペルソナとしての「山田太郎」、アニメ・クラブ用ペルソナとしての「山田太郎」……など、複数のペルソナを作れる。

それぞれ外部からは別の人間のように見える。
アニメ・クラブ用の「山田太郎」が誰を友達登録して、どんな投稿をしているのか、フットサル用「山田太郎」の友達には決してバレないように。

ちなみに名前は全てのペルソナで同じものを使っても良いし、架空のハンドル名でも良い。どのみち実名登録をした時点で「同姓同名」を許すということであり、すなわち名前は唯の「文字列」でしかなく、厳密な識別には使えない。

ペルソナは同時に10個まで登録可能で、どれかを削除すれば、新たに別のペルソナを登録できる。
これは、例えばフットサル・チームのメンバーとケンカ別れして、他のフットサル・クラブに入会しなおした時のためだ。
一人の人間が演じる役割というのは、何年かおきに生々流転するものだ。

ただし、いわゆる「捨てメールアドレス」的な、無駄な資源の浪費を抑制するため、例えば、1ヶ月に作れるペルソナの数は3個までとする。

こんなSNSがあったら、「SNS疲れ」の抑止にもなるだろうし、なかなか良いのではないかと思うのだが、どうだろう。