青葉台旭のブログ

青葉台旭が日々思う事を書きます。未整理の思考の断片も書いていきます。整理された思考は http://aobadai-akira.hatenablog.com/ に投稿しなおしていますので、そちらもよろしくお願いします。

小説のキャラクター描写に付いて

特に、アメリカの長編サスペンス小説なんかを読んでいて思う時がある。

「ちょっとキャラクター描写がこってりし過ぎではないか、と」

まあ、それが良い、そういうバタ臭さが「いかにも翻訳物の小説を読んでいる気分に浸れて良い」という事もあるとは思うのだけれど。

ああ、話は逸れるが、これだけ世界中に瞬時に情報が伝達され共有される時代にもなると「バタ臭い」という言葉は、いずれ差別語に認定されると思う。これって要するに、アメリカで、我々日本人が「魚臭い」って言われるようなものだから。たぶん今はまだ、日本に「バタ臭い」なる言葉があると知っている欧米人は少ないし、使う側の我々にも、それほど罪の意識がなく「ちょっと、欧米人のあのセンスって、われわれ日本人には理解できないよね」くらいの軽い気持ちで使っているから、問題になっていないが。

話を元に戻すと、例えば主人公を特徴づける描写として「○○は、毎朝、靴を履くときは左足からと決めていた」とか、「マルボロは必ず2箱ずつ買っていた。1箱でも、3箱でもなく、2箱だ。1箱しか置いていない時は、買わずに店を出た」とか「マルボロを買う時は、4ブロック先の雑貨屋と決めていた。もっと近く、2ブロック先にはセブンイレブンもあったが、そこで買う事は決して無かった」みたいな感じで、主人公のどうでも良いこだわりを延々と書いてみたり、身の回りの物を表すのに「タバコ」「コンビニ」ではなく、「マルボロ」「セブンイレブン」など、誰もが名前くらいは知っているブランド名で描写してみたり。

話の本筋とは関係ないディテールを積み重ねることによって、人物にリアリティを持たせるという作業自体は間違っていないとは思う。

ただ、それがちょっと、くどいな、と思う時はある。

「その料理に砂糖を入れる事自体は間違っていない。ただ、砂糖4杯は多すぎると思う。なんとか2杯にならないか」という感じか。