青葉台旭のブログ

青葉台旭が日々思う事を書きます。未整理の思考の断片も書いていきます。整理された思考は http://aobadai-akira.hatenablog.com/ に投稿しなおしていますので、そちらもよろしくお願いします。

ひょっとして共産主義というのは、資本主義の反対語ではない?

最近ふと思ったんだが、共産主義というのは、資本主義の反対語として存在するのではなく、資本主義がとことん進んだその先にあるものとして定義されているのではないだろうか。

つまり、共産主義とは「反」資本主義のことではなく、「超」資本主義のことである、と。

資本主義が徹底され、徹底されて、徹底され切った、その先の、徹底的な資本主義社会を親として生まれてくるものであると、定義されているのではないだろうか。

落ちた木の実から新たな芽が出るためには、いったん、木の実が熟して熟して熟し切って、腐って木から落ちる、という過程がどうしても必要というか。

子が親を嫌うのは世の常だが、しかし親が居なければ子も生まれないというのが事実であろうし、親が構築した世界の中でしか子は育たない。成長した子は親を殴るが、しかし鏡を見れば、自分の顔の中に親の面影が確かに存在する。

何が言いたいかというと、「生産手段を資本家が所有する=資本主義」も「生産手段を社会(国家)が所有する=共産主義」も、結局、個人から生産手段を奪い取っているという意味では同じだろ、同じ穴のむじなだよ、という事だ。

人間は皆、生み出す価値の多少はあるにせよ、「自分自身」という生産手段を持っている。

自分自身の頭脳、自分自身の肉体、自分自身の経験、自分自身の知恵、自分自身の性格。

これらは個人が財を生み出すための、貴重な個人固有の資本だ。個人が大切に守り、育てるべきものだ。

そういう意味では、(セイフティ・ネットで救われるべき何らかの事情を持つ人以外には)真の「無産階級」などと言うものは存在しない。

昔の人は、よく「体が資本だよ」などと言ったものだ。

誰だって「自分自身」という資本を持つ「資本家」だ。みんな自分という生産手段を持って、この社会に存在するのだ。

……なんで、こんなことを考えたかというと、以下のエントリーを読んだからだ。

fromdusktildawn.hatenablog.com

fromdusktildawn.hatenablog.com

エントリーの著者の意図はともかく、私は、これをきっかけに「個人が生み出す価値」「価値を生む者としての個人」について考えたからだ。

確かに、日々、資本主義の世界が深化しているという感覚はある。

「世界」という名のカジノに参入してくるプレイヤーは年々増え続け、掛け率は年々上がり続けている。

世界で最も製作費のかかった映画は「パイレーツオブカリビアン」の340億円で、興行収入は1100億円だそうだ。ちょっとした国家予算なみだ。

340億円をかけて、1100億円を売り上げる。

世界はそういうハイリスク・ハイリターンの時代に突入してしまった。

そんな中で、資本家は資本家で、自分の職務に忠実であろうとしているだけなのかもしれない。

しかし、だからといって、私は私自身という唯一無二の生産手段を他人に奪われたり、私が生み出した価値を不当に買い叩かれるのは嫌だ。

資本家だろうと、共産主義国家の官僚だろうと、誰かに「私自身という名の生産手段が生み出す価値」や、まして「私自身という名の資本そのもの」を奪われるのは嫌だ。